私の中の神隠し
今日はこないだ行ってきた
”龍神山”
”龍神宮”
”八幡宮”
”三星山”
"プチ屋久島"三星山
和歌山県田辺市にある山で、
水の浸食と地殻変動によって出来た
田辺層群とよばれる地層にそびえる山。
山頂付近は展望の良い岩峰となっている。
その前に行ってきたのは
豊秋津神社
綿津見神社
秋津島、秋津洲(あきつしま、あきづしま)
日本の本州の古代の呼称
通していってみて、感じ取れたことを残しておこうと思いまーす!
まーす!とか言ってもそう簡単にまとめられるものではないので
リストアップ的にざっとられるしていきまーす!
興味のある方は、コーヒー片手に夜更かししてください~
まずはこのPVもじっくり見といてくださいね~
天津神
国津の国を上から見下ろし、ゲーム感覚で国を動かしてる
天津神の傀儡
いわゆる政府、天津の操り人形
国津神
時の朝廷からは常に鬼と呼ばれる
先に行ったのはこちらだけど、宿題をたくさんもらって帰ってきた感じ
伊作田稲荷神社
豊秋津神社
綿津見神社
伊作田稲荷
イサクダイナリ
イサク ダイナリ
イサク イダイナリ
イサクについて、
彼は父アブラハム同様に、神の「祝福」を賜る者として描かれています。
主がイサクに現われ、26章3節「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、
これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、
あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」と宣言されます。
主はさらにイサクに24節で、
「恐れてはならない。わたしはあなた共にいる。
わたしはあなたを、祝福し、子孫を増やす」と
このようにお語りになりました。
https://message-station.net/episode/1638/
井戸を掘り続けた男
https://blog.goo.ne.jp/bap-oosaka-ch/e/f789d79a27641aafd93b133ced7efaf5
この地では
”イサイダ” と読む
伊作田阿羅昆可(いさいだあらびか)大明神から
伊作田稲荷(いさいだいなり)大明神に。
もともとは
伊作 田 阿羅昆可
イサク ダ アラビカ
エルサレムはアラビア半島
https://www.google.com/maps/place/嘆きの壁/@31.7962419,17.2456629,4z/data=!4m13!1m7!3m6!1s0x1502d7d634c1fc4b:0xd96f623e456ee1cb!2z44Kk44K544Op44Ko44OrIOOCqOODq-OCteODrOODoA!3b1!8m2!3d31.768319!4d35.21371!3m4!1s0x150329c939ceab8f:0x83ad5efed1777179!8m2!3d31.7767018!4d35.2345276
神殿の丘はユダヤ教とキリスト教の聖地でもあります。
ユダヤ教では岩のドームのある場所が、アブラハムが息子イサクを神に捧げようとしたモリヤの丘であるとされており、
内部の岩は世界が創造された時の基礎となった石(エベン・シュティヤ)であると言われています。
https://japanalltraveler.com/spot/rock-dome/
??
アラビカコーヒーノキ(阿拉比卡珈琲,学名:Coffea arabica)は、エチオピアのアムハル高原に起源をもつとされるアカネ科の植物
https://www.google.com/maps/place/エチオピア高原/@12.5333322,41.3680464,5z/data=!4m5!3m4!1s0x163df8e94f630a4d:0x58c1e944ef47eb20!8m2!3d12.533333!4d41.385556
今日行った所はすべて岩倉
はじめに行ったのはヒキ岩でカエル
岩倉のカエルは ”ヨミ カエル”
ヨ ミカエル
「アラブ人」という概念は人種的存在とは言えない。
むしろセム語(アラビア語)という言語を共有する人々としてであったり、
聖書に窺える、ある人物を始祖とするという共通概念で規定される。
アラブ人は
旧約聖書に登場するアブラハムが妻サラの女中であるハガルとの間に生ませた
長男のイシュマエルを祖とするイシュマエル人の子孫と称し、
イサクの次男ヤコブの子孫であるユダヤ人とは別の民族になったとしている。
民族的概念と人種的概念が一致しないという点で、
アラブ人とユダヤ人は共通するといえる。
最初のアラブ人はアラビア半島の住民である
(いわゆる「アラビア人」は、イスラム教徒でもある彼等およびその子孫全般のみを指す)が、
イスラム教の聖典のクルアーンはムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉とされているため、
イスラム教の拡大によって
ベルベル人やエジプト人、そしてメソポタミア人(イラク人)などの近隣の多くの人々が言語的に同化させられ、アラブ人となった。
https://www.weblio.jp/wkpja/content/アラブ人_アラブ人の概要
中東系のアーリア人のイメージ
龍神山 龍神宮
https://www.google.com/maps/search/上秋津佐古谷/@33.7679789,135.4207386,14z
”龍神山”
”龍神宮”
”八幡宮”
”三星山”
稲荷[いなり]の古社に祀られる白狐は
口に宇伽珠[うかのみたま]を含む。
これは流星と隕石の権化[ごんげ]である。
古人は地上の森羅万象の生命総ては
天空から降り下ったと考えていた。
人間もまた然りで 日々に必要な食物もまた
宇宙から送られた品物に外ならなかった。
確かに、龍神宮の奥宮に当たる、
『八幡社』のおやしろには
白狐2対と白蛇様が祭られてた
ウカノミタマ
八幡 はちまん は ヤハタ で ヤハウェ
Yahweh は 聖書の白蛇
そして石神
(イシガミ、イソノカミ、シャクジ、ミシャクジ、mishakuji,、mi sai、
ミ・サイ、御賽、御塞、塞ノ神 )
龍神宮には
安曇の祖 ワタツミ三神
この土地の正体
ココから下は全然ぴんと来ない
ご祭神を見ても新しすぎる
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竜神鎮まる聖なる山
山頂付近には龍神宮
八幡宮の分社
天正13年(1585年)豊臣秀吉の紀州攻めのとき、
芳養荘林村にあった八幡宮(中芳養・上芳養の旧8ヶ村の産土神)が炎上し、
そこから白鳩が2羽飛び去り、
はるか東方の竜神山の山上に止まるのを付近の子女が見た。
その子女が
「その山上にさっそく社殿を造れば誓って平和になるであろう」と
わめき回ったので、
氏子らは戦災後ではあったが、翌年に八幡宮の分社を竜神山の山上に造営した。
その子女はその社の巫女となり、80余歳まで平和祈願の神事に奉仕したという。
もとの八幡宮は天正18年に再建されたが、
その間、御神体は竜神山の山上の分社に避難していた。
芳養八幡神社
京都石清水八幡宮より勧請された古社
芳養谷一帯は平安時代以降、京都の石清水八幡宮の荘園であり、
石清水八幡宮から勧請されたのがこの芳養八幡宮。
中芳養、上芳養の旧8ヶ村の氏神です。
祭神は、
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)。
この3神を八幡神として崇敬しています
天正13年(1585)豊臣秀吉の兵火により全焼し、天正18年再建されるも、
その間御神体は難を避けて八幡宮の東北、竜仙山に渡り坐された。
石清水八幡宮
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。
旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、
伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)
または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。
また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。
本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。
https://www.google.com/maps/place/石清水八幡宮/@34.8796365,135.7000633,14z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x5cd5dfde739270c7!8m2!3d34.8796365!4d135.7000633
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↑
全然ピンと来ない
田辺の市街地近くにある竜神山という山の頂部には竜神宮という神社があります。
闘鶏神社とも深いつながりのある神社です。
熊野権現秘事の巻:熊野の説話
https://www.mikumano.net/setsuwa/hiji.html
新熊野田辺の宮(闘鶏神社)に伝わる「熊野権現秘事の巻」。
ある日、日が真南にさしかかったとき、急に日の光が7色に輝いた。
牟婁野の津(田辺湾)の沖に一条の白波が立ち、
猛烈な速さでまっすぐ津の中に突き進んで来た。
波頭には小さく光るものが。
加四魔(神島)の島辺りに差しかかると光は急に大きくなり、
しばらく留まってから神光となり空に舞い上がった。
神光輝く空の下、海面が泡立ち、波が巻きあがり、
海面を割って海龍王(神龍)の頭が浮かび上がった。
そのとき、神島近くの神楽島に寄せる波音が神楽を奏し始めた。
また近くの旗島には白妙の幣帛が立ち並び、はためいた。
神光が北を目指し移動を始めると、
天神崎の雲間に天女の一群が舞い始め、
神光が浜辺近くの丘に差しかかると、
その麓の神子浜村に天女が舞い降り舞楽を奏し始めた。
神光が丘の上から海龍王を招くと、
海龍王は燈を捧げて加四魔の沖から進み来た。
海龍王が
「この地は清浄であります。影向してください」と申し上げると、
神光はこの丘に留まり座すこととなった。
海龍王もこの丘に仮の住居を営んだ。
そこで、この山を海龍王山とか假庵山(かりほやま)と呼んだ。
しばらくして海龍王は、
北方に見える山に赴いてその頂上の貝穴に鎮まろうと神光に願い出て、
これが許されると海龍王は忽然と姿を消し、
大己貴命(おおなむじのみこと)の姿となって現われ、
天の羽車に乗り空に舞い上がった。
神光は山の麓の秋津野まで雲を起して大己貴命を送った。
大己貴命は頂上の貝穴に入ってこの山に鎮まった。
そこで、この山を龍仙山と呼び、
麓の雲が湧き立った所を雲の叢とか雲の森と呼ぶようになった。
神光は假庵山に還り、この地に鎮座することとなったが、これが熊野坐大神である。
闘鶏神社近辺の各地の説話を混ぜ合わせて作られたような感じです。
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権現宮の縁起ならびに秘事
紀州牟呂郡(むろぐん)田辺庄(たなべのしょう)に
権現宮が御鎮座(ちんざ)しています。
神代(かみよ)の昔、海龍王が山に現れ、
加四磨(かしま)と称す 一島の北の海中の浦の磯からは、
神光(しんこう)が、漏れ出して、辺り一面を輝かせました。
そこに、岩の名を神楽岩、村名を神子浜村という浜がある村があります。
神光が現れ、海龍王が山に向かわれた時、天女が村に降り、
楽器を奏し、舞ったので、
村の名を神子浜と呼ぶようになりました。
また、波が岩に打ち寄せる とき、岩が自然と琴や鼓の音を放ちました。
そこで神楽岩といいます。
龍王は忽然と海から浮かぶと、燈(あかり)を捧げて山に向かいました。
龍王は、そこに草を結んで、假の金殿を作りました。
そこで彼の山の名を假庵山 (かりほやま)といいます。
神龍が、柏手を打って、
光に此の所は清浄です。影向してください。と言い終わると、
一円の神光は、
此の山はとどまる事は可能ですが、三元の神妙を得る 事は出来ません。
もう少し検討してくださいませんかと言いました。
そこで神龍は神光を假庵山にとどめた上で、
海中からは測る事の出来なかった秋津野の山に住居を求めました。
この嶮山を号して龍仙(りゅうぜん)といいま す。
そ こで山から貝空が出てきます。
この時、神龍は大己貴命(おほむなち)尊となって顕われ、
天の羽車に乗って虚空の山麓に上りました。
神光からは雲が起こり、(そこで此の所を雲の森といい ます。)
共に天 の羽車で龍仙の頂きに向かったと云います。
今、龍仙にある宮が是だそうです。
天武天皇13年6月 干支 甲申(きのえさる)
十二殿を構えて◻始祭に奉崇する 天神地祇(天の神、地の神)
神祇式の口伝
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一円の神光
しばらくして海龍王は、
北方に見える山に赴いてその頂上の貝穴に鎮まろうと神光に願い出て、
これが許されると海龍王は忽然と姿を消し、
大己貴命(おおなむじのみこと)の姿となって現われ、
天の羽車に乗り空に舞い上がった。神光は山の麓の秋津野まで雲を起して大己貴命を送った。
大己貴命は頂上の貝穴に入ってこの山に鎮まった。
そこで、この山を龍仙山と呼び、
麓の雲が湧き立った所を雲の叢とか雲の森と呼ぶようになった。
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神島の神は、田辺市秋津の竜神山(りゅうぜんさん)の神と同体であるといわれ、
神島沖に現れた竜神が立ち上り竜神山に鎮まったと伝えられます。
詳しくは「熊野権現秘事の巻:熊野の説話」で。
2つの「かしま」
南部(みなべ)沖には鹿島(かしま)という島があり、
田辺の神島と南部沖の鹿島、
2つの「かしま」が近辺にあるのは、
昔、大人(おおびと)が2つの島を天秤棒で担いでいて、
天神崎で荷を降ろしたので同じような島が2つできたのだとの伝説もあります。
南方熊楠はこの池で珍しい藻類を採取しました。「南方二書」には、
(ロ)は竜神山(りゅうぜんさん)といって上り道が30丁ある。
古えは桜樹の名所であったが、濫伐が打ちつづき、
土砂崩壊して小川を埋め、毎年洪水が絶えない。
そして頂上(ロ)と書いたところにクラオガミの神祠がある。
今日の日本にあまり多くない神で、『日本紀』などに見えているので、
もっとも崇敬すべきである。
この頂上に神池があり、清泉が湧出する。……
加えて、四方眺望絶景にして、山川溝港湾岬丘山などの地理を、
小児に示すのに屈強の所である。
それなのに、これも村人が拒むのを無理に山麓の社に合祀し、
大きな石鳥居を移す。
この山は冬と夏の2度、近県より夜も昼も参り、柿店などが出て大いに賑わい、
村民および近町の者の利となり、また小児なども健足の便りとなり、
四望して気性を養成するによい。
村民はこの祭日を当て込み、無賃で総出となり、道路を修め山林を整えたのだ。
それなのに、神社を無理に合祀されたため、
隣村がこの山の小さな材木を争うことが絶えなくなった。
アカメヤナギ、ノグルミ、ゴシュユなど、
この近傍にはここにしかないものも追々滅跡していって、
神流にあった無数の鼓藻、バトラコスペルマムの異品も絶え失われ、
洪水が多くなり、山は荒れ、土は崩れいく。
この小山の一方に杉林を作り防崩林を営むのに、
一方では樹木濫伐して土壌崩壊に任せるのを見るのは、
じつに行政上の大矛盾、一奇事である。
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「熊野権現縁起」と云う古い書によりますと、こう云うふうに書かれてあります。
今から千三百年も前の遠い遠い昔の話です。
常春の国南紀でも、冬はやはり厳しく、熊野灘は波が荒れ狂っていました。
田辺湾にも高波がしぶきを上げて打ちよせています。
ある日のことです。境も朝から海鳴りが激しく、
海原をひゅうひゅうと風が渡っていきました。
ところがお昼前のことです。
風がぴたりと収まり、俄に明るい陽の光がさしはじめると、
海もまるで油を流したように静まりました。
それは春の陽気といってもよいくらいで、
ちいさな小屋に閉じこもっていた人々も、
首をかしげながら、ぞろぞろ外へ出て行きました。
その時太陽の光が一段と強まり、七色の色彩となって、
この浜一ぱいに降りかかってきたのです。
海もその色を映して、その美しさには、まるで魂も奪われんばかりでした。
突如沖の方に一条の白波が立ちはじめ、
ものすごい早さでこちらへ進んできます。
なにやらきらきら光るものが見えます。
その光るものは、神島の辺りにさしかかると、ぴたりと動きをとめ、
そこから真っすぐに上昇して、空高く舞い上がりました。
その光に招かれるように、みるみる海面が盛り上がると、
たとえようもないほど巨大な海龍が浮かび上がってきました。
まるで頭は切り立った巌のようで、
二本の角は白銀色に光り輝き、
らんらんろ光る二つの眼からは、いなずまがほど走って、
口からは紅い焔を吐いて、
何やら上空からの光の合図を待っているようです。
神島のすぐ傍にある神楽島に打ちよせる波の音が、
お神楽の笛、太鼓のようにきこえ、
旗島には海岸沿いに、白い幟が立ちならんで、はためいています。
人々は口もきけず、只うっとりと、浜辺に立ちつくしていました。
中天にかかっていた神の御光とも思われるものが、
そろそろ北に向けて移動するにつれて、
雲の間から天女の一群が舞いはじめました。
まさしく神の御光です。
その御光が今牟婁津の浜の上空にさしかかり、雲間に遊んでいた天女たちは、
ゆっくり神子浜に舞い降りて、妙なる音楽を奏しはじめました。
神の御光が、丘の上から差しまねく様にしますと、
海上に首を高くもち上げた海龍が、口に灯明をくわえて、ゆっくり進んできます。
そして神子浜の渚までくると、
あの恐ろしい海龍の姿が消えて、
そこに大己貴命の尊いお姿を拝することが出来ました。
大己貴命はしばし仮の庵でお留りになりましたが、
しばらくたった或る日、天にいます神に向かって
「どうか私に安住の場をお与え下さいませ。」とお願い申しあげたところ、
天の神様は軽くおうなずきになり、
「お前の望む所へ行くがよい。」とお許しになりましたので、
大己貴命は、天の羽車に召され、
麓の雲の森から立ち上り、
磯間の浦までお迎えに流れきた雲に、車ごとお乗りになって、
龍神山にむかわれたと申します。
この時海龍をお導き下さった、天の御光こそ
熊野坐大神様で末長く熊野の地をお守り下さっております。
昔語りとは云え、
このように壮大な道具立てのそろったお話は外に見当たりません。
おまけに海龍が大己貴命となって、鎮まったと云われる龍神山、
天女たちが降り立って舞った神子浜、
そして白い旗が立並んだと云う畠島(旗島)、
荘厳なおかぐらの調べがきこえたと云う神島、
お迎えの雲が湧き上がった雲の森など、
関係のある名前が全部地名となって、残っているのも、
まことに不思議なことではありませんか。
けれどもこの神話は天武天皇十三年の記録に
「熊野権現縁起」ならびに秘事として残されているところからみて、
正に熊野の天地創造の神話とも見ることが出来るではありませんか。
ご鎮座以来千三百年其の間多少の盛衰はありましても、
ご神威は変りなく、伝え伝えて今日に至りました。
しかし我々は今後永久に子孫に伝えていかなければならぬ責任があります。
ご神威の益々ご発展を祈って止みません。
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神島の神は、田辺市秋津の竜神山(りゅうぜんさん)の神と同体であるといわれ、
神島沖に現れた竜神が立ち上り竜神山に鎮まったと伝えられます
時代時代の宗教弾圧を乗り越えるためにいろいろ隠されてしまったことがあるんだよ
ヤハタにいるのはオオナムチの神。
それを隠すのに、
うちのお店のお客さんのおじいちゃんの玉置さんが、
たぶん明治の終わりとか大正頃にあの社を作った。
(私がインスタに龍神宮の写真とかアップしてるのを見て、
おじいちゃんが作ったものと教えてくれた。すごいびっくりな偶然!!)
玉置神社の玉石社の祭神もオオナムチ。
三輪山の祭神もオオナムチ。
隠さなきゃイケない時代があったからね。
熊楠ももともとの神様の存在は知っていたんだと思うよ。
熊楠の大本系の人だからね
https://www.minakatella.net/letters/2sho22.html
明治の神社合祀のころの話だね。これは
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53571?page=2
玉置神社もこれを生き残った神社だよ
十津川村には神社は玉置しかない
でね、、、
三輪神社に行ったときに私感じたんだ。
もともとの神様のいた場所は山頂じゃなくて、その途中の磐座だって。
で、そこは絶対にコトシロヌシだって思ったの。
神社の古い縁起書には
頂上の磐座に大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
中腹の磐座には大己貴神(おおなむちのかみ)
麓の磐座には少彦名神(すくなひこなのかみ)が
鎮しずまると記されています。
私が反応したのは、やはーり
中腹の磐座の大己貴神(オオナムチノカミ)
大己貴神(オオナムチノカミ)=八重事代主(ヤエコトシロヌシ)
『大国主命の異名同神である大己貴命』
↑
こういう書き方がまた混乱を生むきっかけとなったわけだけど、
こういう書き方をなぜしたのかっていったら、
”オオクニヌシ”は神様だからさ、死なないじゃん。
だから何人もの人がオオクニヌシという名前を
ついでいってるわけね。
むちゃくちゃむっちゃんがばらしちゃった
タケノウチノスクネと同じで、
第73代タケノウチノスクネですってさ。
”大国主”も同じなわけ。
『またの名を』ってなってるところで
次の第の人が襲名してるわけね。
歌舞伎とも同じ。
で、この大己貴命は実は八重事代主なの。
それは三輪山登ったときにはっきり確信できた。
::::::::::::::::::::::::
事 と 言
これは同じ意味。
神意宣託の神
事代主の「コトシロ」は「言知る」の意で、
事代主神は託宣を司る神のことである。
古代においては「言(言葉)」と「事(出来事)」の区別がないため
「言」とも「事」とも書く。
神の言葉を聞いて伝える神、、、といえば
上のsnootie wildが首からさげてる
そう、イエスキリスト
イエスキリストも同じタイプの託宣を司る神
別名は八重言代主神、八重事代主神とも表記し、
『古事記』において大国主神と神屋楯比売命との間に生まれたとされる。
葦原中国平定において、
建御雷神らが大国主神に対し国譲りを迫ると、
大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主神が答えると言った。
そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、
事代主神は「承知した」と答え、船を踏み傾け、
天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。
この天ノ逆手は一般に手を逆さに打つことだと考えられている。
抵抗した弟の建御名方神も建御雷神に服従すると、
大国主神は国譲りを承諾し、事代主神が先頭に立てば
私の180人の子供たちも事代主神に従って天津神に背かないだろうと言った。
美保で青柴垣に引き籠った事代主神は、
伊豆の三宅島で三島明神になったとする伝承もある。[要出典]
『三宅記』によれば、
富士山の神とともに10の島を生み、現在の三嶋大社(静岡県三島市)に鎮座したとされる。
あそこは山の中写真撮ったらだめってことで撮って来てないけどね。
この事代主の神話にこうある。
『船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。』
この時に『事代主から新・大国主になって、出雲の地を去った』んだと思うけど、
事代主の大国主になる準備期間の名前が大己貴命(=大国主)だとしたら、
タケミナカタの父親になるんだよね。
ヌナカワヒメと結ばれたのは、”この大国主”
なので信濃国には
タケミナカタとコトシロヌシとヌナカワヒメが祭られてるところもちゃんとある。
この天ノ逆手は一般に手を逆さに打つことだと考えられている。
天ノ逆手(=天ノ逆=あまのぎゃく=あまのじゃく)
青柴垣(=榊)
ココにも私につながる言葉が入っているのよね
わざわざ手を逆さに打つという、一般とは逆のことをするって注釈
国津神
@全名
大国主神
@別名
*大穴牟遅神
国作大己貴命
*八千矛神
葦原醜男
*大物主神
宇都志国玉神
大国魂神
伊和大神
所造天下大神
地津主大己貴神
国作大己貴神
幽世大神
幽冥主宰大神
杵築大神
@先代 天之冬衣神
@次代 鳥鳴海神
大国主、初代はスサノオの孫じゃなくて、
スサノオの娘婿であって
血の繋がりはこの時点ではない。
どこから来たかわからない人とされてる。
神話では事代主がこの大国主の息子になってるけど、
それも違う気がする。
神社が神社を弾圧した歴史があったし、さまざまな弾圧で神隠しが繰り返された。
長い年月を経て
本当の名前がわからなくなってしまってるのよ。
yae kotosironusi
yayo yay yae
Aye Yayo All i know is yayo
リリックの内容はドラッグのことなんだけど、意味はどうでもいい
龍神宮の白蛇様と大神神社の白蛇様は同じで、
しかもそれは大国主になる前の事代主のことであり
八重事代主神(ってことは、=タケミナカタということになるんだ)
八重 やえ やへ ヤフェ ヤーフェ ヤハウェ
スサノオの御霊
隠された 隠した 隠れた 消された
ちょっと集中力切れ気味、、、、、
続きはまた明日。。。
明日は
事代主の鶏伝説
島根県美保関町には、事代主が鶏を嫌うという言い伝えがある。
折口信夫は、その理由として、
事代主の妻訪い(妻問い)の物語を紹介している。
それによると、
「事代主は、夜毎海を渡って対岸の揖夜(イフヤ)の里の美保津姫のもとへ通っていたが、鶏が間違って真夜中に鳴いたため、事代主はうろたえて小船に乗ったものの、
櫂を岸に置き忘れて仕方なく手でかいたところ、鰐(サメのこと)に手を噛まれた。
以来、事代主は鶏を憎むようになり、それにあやかって美保関では鶏を飼わず、
参詣人にも卵を食べることを戒める」としている。
島崎藤村は、
「釣り好きの事代主が寝ぼけて鳴いた鶏の声を聞いて未明に船を出し、
荒れた海で櫓も櫂も失い、足で水をかいたところ鰐に足を噛まれた」
という話を紹介している。
現代でも、事代主を再現した美保関の青柴垣神事の際に当屋に指名された者は、
1年間鶏肉を食べないで身を清める習わしがあり、
美保関から中海を渡った対岸には、美保津姫を祀った揖夜神社がある。
事代主神(於天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代主神)
(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)
長田神社
平成7年(1995年)1月17日の阪神・淡路大震災では
本殿こそ倒壊を免れたものの、
大きな被害を受けた。参集殿は震災時、避難所となった。
氏子以下の寄進等により、平成12年(2000年)夏に復旧した。
現在は境内には鳩が放されている。
???
かつては境内には
数百の鶏が飼われており、外国人からは「チキンテンプル」と呼ばれていた。
その由来から祈願の際には、境内に鶏を奉納したり、
鶏の絵馬を捧げる風習があった。
そしてかつては氏子は鶏肉や卵を一切食さない
また、婦女の歯を鶏の羽根を用いて染める風習があった。
明治時代末期まで55代、約1000年にわたり大中家が代々神職を務めてきた。
この天ノ逆手は一般に手を逆さに打つことだと考えられている。
天ノ逆手(=天ノ逆=あまのぎゃく=あまのじゃく)
青柴垣(=榊)
ココにも私につながる言葉が入っているのよね
わざわざ手を逆さに打つという、一般とは逆のことをするって注釈
コトシロヌシと鶏
鶏といえばアマノジャク
天逆毎姫(あまのさこのひめ)
『和漢三才図会』巻第44・山禽類「治鳥(じちょう)」 ある書に言う。
服狭雄尊(そさのおのみこと)は猛気が胸・腹に満ちあまり、
それが吐物となり口外に出て天狗神となった。
人身獣首の姫神で、鼻が高く、長い耳と長い牙を持つ。
左にあるものを「右」と言い、前にあるものを「後」と言い、
自ら「天逆毎姫」と称する。
天の逆気を呑み、独りで孕んで児を産み、
天魔雄神(あまのさかおのかみ)と名づけた。
あまのじゃくが鶏の鳴き真似をする。
岩の掛橋(高木敏雄『日本伝説集』第3)
羅石明神が越後と佐渡の間に橋を掛けようと、
ある夜、多くの眷属に石運びを命じた。
夜明けまでに完成するはずだったが、
眷属の中に怠け者で仕事嫌いのアマンジャクがいて、
まだ夜半過ぎにもならないのに鶏の啼き真似をした。
明神は騙されてたちまち姿を隠し、
眷属どもも散り失せて、橋は出来上がらなかった
(越後国柏崎)
コトシロヌシとアメノサグメ
それから
コトシロヌシとミホツヒメ(=ヌナカワヒメ)
揖夜神社(いやじんじゃ)
主祭神 伊弉冉命
配神 大己貴命、少彦名命、事代主命
武御名方命、経津主命
記紀神話に登場する黄泉比良坂の比定地の近くにある。
三穂津姫神社
『出雲国風土記』不在神祇官社「伊布夜社」に比定される。
祭神は三穂津姫命。本殿の右側にある。
三穂津姫(みほつひめ)は、
高皇産霊尊の娘で、大物主神あるいは大国主神の后。
↓
ヌナカワヒメ(越・諏訪の神:タケミナカタの母)
高御産巣日神は意支都久振為命を産み、
命が卑都久振為命を産み、同神が沼河比売を産んだとされる。
ミホツヒメ=ヌナカワヒメ
ひとまずココまで。
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