あ、、
わかやまは
そのむかし
おかやま
だった
そう。
紀ノ川沿いを歩くと
わかるんだよね
だいぶ前に紀ノ川沿い行ったときに
そう感じて調べたらそうだったんだ
【戦国こぼれ話】
和歌山県の「和歌山」は、豊臣秀吉の弟・秀長が命名したものだった
そもそも「和歌山」の淵源をたどると、古代にさかのぼる。
奈良時代以前、現在の和歌浦は「弱浜」といわれており、
「わかのはま」あるいは「よわはま」と呼ばれていた。
724年に「弱浜」を訪れた聖武天皇は、
「明光浦(あかのうら)」と呼ぶこととし、詔を出した。
また、『万葉集』に収録された歌人の山部赤人の歌では、
「若の浦」と詠まれている。
そして、平安時代以降の和歌でも、
「和歌の浦」と詠まれるようになった。
「和歌山」のルーツには、和歌浦が関係しているようだ。
■秀吉の紀州攻め
天正13年(1585)4月、
紀州攻めを圧倒的な勝利のうちに終えた羽柴(豊臣)秀吉は、
紀伊国の支配を弟の秀長に任せた。
通説によると、このときに
「和歌山」の名称が用いられたといわれている。
『紀伊続風土記』という史料には、次のとおり記されている(要約)。
天正13年、
秀吉が根来寺を滅ぼし、太田城を降参に追い込み、
紀州を統一して秀長に与えた。
秀長はこの地(和歌山城)に縄張りを命じ、
藤堂高虎らを普請奉行にして本丸・二の丸を年内に築いた。
秀長は大和国郡山を居城としていたが、桑山重晴を城代とし、
自らは天正14年から(和歌山城に)在城して
「若山の城」と称した。
この史料によると、紀州攻めの翌天正14年(1586)になって、
秀長が「若山」と称したと書かれている。
当初は「和歌山」ではなく、
「若山」だったようだ。
「和歌」の字が異なっていることに気付く。
■「岡山」だった?
実は、先に示した『紀伊続風土記』の続きには、次に示す興味深い記述がある。
この地(和歌山城)は吹上浜の東に峙つをもって「吹上峰」と号し、
また岡山の北首にあったので「岡山」の名があった。
「岡山」の南和歌浦の諸山とつないで、
「和歌」の名がもっとも四方に高いことから、
「若山」と名付けたという。
和歌山城のあった場所は違う地名
(「吹上峰」「岡山」)だったが、
「岡山」の南に位置する
当初は「若山」と称したと記す。
『武徳編年集成』には、
天正13年(1585)に秀長が「岡山」の地に城を築き、
のちに「和歌山」の城と名付けたと書かれてる。
しかし、これ以外にも諸説がある。
『畠山記』によると、すでに15世紀半ば頃から「和歌山」の地名が見えている。
最近頻繁に揺れているのは
石川県珠洲市若山町
実際に行ってみないとわからない土地だね
古代、沿岸域から内陸地域にかけては「吉備国」として、
現在の広島県東部に位置する備後地方や香川県島嶼部などと併せて
大和朝廷に並ぶほどの勢力を持っていた。
江戸時代初期には岡山に池田氏、津山に森氏が外様大名として入封し、
城下町を形成した。
特に池田綱政は日本三名園の後楽園を造成し、
閑谷学校を開くなど、文化・教育面に多大な功績を残した。
笠岡、井原は徳川家康の従兄弟で有力譜代大名の水野勝成氏の領地となり
広大な新田開発が行われた他灌漑事業、産業育成により
地勢が大きく変貌した。
倉敷には寛永19年(1642年)に代官所が置かれ、
江戸幕府直轄の物資集積地として船舶輸送中継も担う天領として発展した。
かつては備前、備中、備後、美作地方は吉備国と呼ばれる同一文化圏であったが現在では備後地方のみ広島県に所属している。岡山県と広島県の境は山・川などで地形的に分断されるところがなく、今でも両地方の経済・文化的な関係は強くみられ倉敷市の西部を流れる高梁川以西が備後圏、井笠地方(井原市・笠岡市)は福山圏と認識されることがある。
古墳時代
古代には吉備国といわれ、畿内地域や北九州地域、出雲地域などとともに、日本列島の中心地のひとつとして栄えていた地域である。吉備国は畿内勢力と同盟関係を築いて日本列島の統一期(4世紀中葉)に影響を与えた。優れた鉄製技術を持ち、その支配地域は現在の岡山県・広島県中東部・香川県島嶼部・兵庫県播磨地方に及び、加古川を境界とし、さらには四国や芸予諸島にも至っていたと推定されている。また、大きさが全国の古墳の中で第4位、一般人でも立ち入れる古墳としては全国第1位の規模を持つ造山古墳(岡山市北区)や全国第9位の作山古墳(総社市)、両宮山古墳(赤磐市)などの大型古墳が岡山県内に残されている。
昔少しは調べてるんだよ
だけどごっちゃになるから途中からやめた
当時のキーワードは
吉備の国
吉備真備
温羅(鬼と言われた吉備の一族)
桃太郎の鬼退治の鬼のモデルね
古代の岡山は吉備国の一角であり、弥生時代と古墳時代には、筑紫・出雲・ヤマト・毛野などと並んで、日本列島を代表する政権として繁栄し、ヤマトと連合して列島の統一・治世に貢献した。
しかし、吉備の興隆を快く思わないヤマトに勢力を削減され、備前国・備中国・備後国・美作国に分割され、これ以後現在に至るまで、経済・文化の面で連関の強い旧吉備国の政治的な統一は達成されていない。吉備国が分割された後、備前国の国府は現在の岡山市域内に置かれたと見られる。
1889年(明治22年)の市制施行以来、周辺の市町村と合併を繰り返してきた現在の岡山市は御津郡(旧・御野郡・津高郡)・上道郡・吉備郡(旧・賀陽郡)・児島郡・邑久郡・都窪郡(旧・都宇郡)・赤磐郡(旧・赤坂郡・磐梨郡)・和気郡・久米郡(旧・久米南条郡・久米北条郡)と備前国・備中国・美作国の広範囲の地域に及んでいる。
『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、
吉備津彦を西道に派遣するとあり、
同書では北陸に派遣される大彦命、
東海に派遣される武渟川別、
丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている
大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)
千千速比売命
倭迹迹日百襲姫命
日子刺肩別命
彦五十狭芹彦命
倭迹迹稚屋姫命
彦狭島命
稚武彦命
稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)
大彦命
少彦男心命
倭迹迹姫命
彦太忍信命
武埴安彦命
子
武渟川別(建沼河別命) - 四道将軍の1人で、東海に派遣。『古事記』では阿倍臣らの祖。
御間城姫(御真津比売命) - 第10代崇神天皇皇后で、第11代垂仁天皇生母。
比古伊那許志別命(彦背立大稲腰命/彦瀬立大稲起命)[原 1] - 『古事記』では膳臣の祖。
波多武彦命(波多武日子命)?[原 2]
紐結命(比毛由比命)[原 3]
孫
磐鹿六雁命(伊波我牟都加利命)[原 4]
彦屋主田心命[原 5]
波多武彦命(波多武日子命)?[原 2]
五世孫
田道命[原 6]
八世孫
稚子臣[原 7]
最終ここに繋がってきて、
ここからが本番なんですよ。
壮大な謎解きのスタート
記紀神話の謎から入ってくるんだけど
ここら辺の登場人物のあたりで
いったん今まで調べたことがごちゃごちゃぐちゃぐちゃにかき回されてしまうの
途中からはどうしても自分ん家に絡んできてしまうし。
大国主、大物主、オオナムジ
事代主、スクナヒコ
タケミナカタ
ヌナカワヒメ
道君
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気が向いたら続く。。
今日はもうタイムアウト
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