サインをキャッチするのに忙しすぎる

キャッチはするけど消化する時間がないので

脳みそがショートしそう

だけど

少しだけ、実態がつかめてきた


富士山オブジェ

三不浄色

阿部の一二三詩

桃生


コロナ 567 君

君という文字をばらすと コ ロ ナ


88


今回の台風8号は戦士

石巻に台風は初上陸も目立った被害はなく晴れていた

宮城に台風が上陸したのは、1951年に統計を取り始めて以来初めてです。


宮城県

 降り始めからの降水量は、泉ケ岳で81.5ミリ、石巻市雄勝で74.5ミリを観測。沿岸部では風も強まり、女川では午前4時前に7月では観測史上最も強い最大瞬間風速19.9メートルを観測しました。



石巻市雄勝は菅の生まれ故郷


菅の父は

父親である菅和三郎は第二次世界大戦末期、

南満州鉄道職員として当時満州国(現在の中国東北部)の首都だった

通化市で日本の降伏を迎えた。

引き揚げ後は、郷里の秋ノ宮で農耕に従事した。

当初は「道奥」(みちのおく)と呼ばれ、

平安時代まで「陸奥」(みちのく)とも呼ばれた。

その後は「陸奥」(むつ)と呼ばれた。

畿内から見て山道(のちの東山道)と海道(のちの東海道)の奥に位置する。

中央政権に新規に服従した地域を同国に含めていったため、

時期によって範囲は変遷する。

未だ服従しない北方の蝦夷(えみし)と接した。



「道」は古い時代には「国」と同義に使われており、

「道奥」の語源は

「都からみて遠い奥」にある国の意である。




道=国



道君=国君



ただいま脳みそショート中

つづく




渡来人が朝鮮半島経由で九州北部に上陸したとする一般的な考え方とは

一見食い違うように思える。

上陸地点である九州北部よりも、

列島中央部の近畿などの方が渡来人由来の成分が高いからだ。

大橋教授は

「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、

むしろ四国や近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」と話す。


何をいまさら言ってんの?って感じしかしないが




近年の遺伝学や考古学の成果から、縄文人の子孫と渡来人の混血は数百~1000年ほどかけてゆっくりと進んだとみられている。弥生時代を通じて縄文人と渡来人が長い期間共存していたことが愛知県の遺跡の調査などで判明している。どのような過程で混血が進んだのかはまだ不明で、弥生時代の謎は深まる一方だ。今回の解析で見えた現代の日本列島に残る都道府県ごとの違いは、弥生時代の混血の過程で起こったまだ誰も知らない出来事を反映している可能性がある。書物にも残されていない日本人の歴史の序章は、ほかならぬ私たち自身のゲノムに刻まれているのだ。




まあ、こういうのが広がれば

あほの一つ覚えみたいな

日本人は島国だから単一民族

っていう、洗脳も溶けていくわよね




俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。

また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。

7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争(蝦夷征伐)で、


大和へ帰服した蝦夷のうち、集団で強制移住(移配)させられたものを指す。

移住させた目的としては、下記のようなものがあった

(『栃木県史 通史編2 古代二』 p.463)。

移住先は九州までの全国に及んだ。


蝦夷自身が、同族から裏切り者として、

報復や侵略される危険性があったため、生命の安全と生活の安定化を望んだ。


故地(陸奥・出羽)から切り離し

公民意識から皇化に浴させ和人へ同化させようとした。


軍事力の備えとして利用しようとした。



奥州藤原氏の時代には、

俘囚は文化的に他の日本人と大差ないものになっていたと考えられる。


俘囚長で奥六郡の支配者である安倍頼良(頼時)の娘(史料では「有加一乃末陪」と記載されている)を妻に迎えた 奥州藤原氏の藤原経清

藤原経清じゃ蝦夷になったようなものなので、キャラ的にデビルマン



藤原氏から見たら裏切り者


この構図


アメノワカヒコなどの国譲り神話




五十猛神(イソタケル)は、日本神話に登場する神[1]。

「イタケル」とも読まれる[2]。

読み方は神社により異なり統一されていない[3]が、

五十猛の上陸伝承のある石見国五十猛村(現在の島根県大田市五十猛町)が

好字二字令により726年(神亀3年)に改称された際には


「磯竹」の字が当てられており[4]、

古来よりイソ音であったことが示唆されている。


『古事記』で大穴牟遅神(オオナムジ、後の大国主)がその元に逃げ込んだ

木国の大屋毘古神と同一神とされる[1]。


イザナギ・イザナミの子である大屋毘古神(禍津日神と同一神とされる)とは

別神であるが、同一神とされることもある。


磯 

五十


磯武

いそたけ

いそ たけ

五十の

いそのたける

磯野



少彦名神


少彦名神後裔の鴨県主一族。

スクナヒコナの父、五十猛命


五十猛命は、スサノオの子

北九州に渡来して妻神(宗像女神、瀬織津姫神)を娶り定着して、

そこに天稚彦らの子孫を残し、


天稚彦の一族は筑後川中流域の筑前国の上座郡(三島郷)から夜須郡にかけての地に居住した。


天稚彦は

「高天原」(『魏志倭人伝』に見える邪馬台国で、筑後川中・下流域を主領域とした)の王家の一員として、博多平野の海神国(奴国)との軍事交渉に派遣され、

そこで海神国王の妹・豊玉姫を妻として、

その間に天目一箇命・少彦名神の兄弟を得るが、

派遣元の高天原に敵方との内通を疑われ殺害されてしまう。


父神は天稚彦(天津彦根命)、

母は海神豊玉彦命の妹の豊玉姫という系譜をもっていた。

五十猛命と同神とも言う。


素盞嗚命は牛頭天王・三宝荒神(竈神)ともされる。

少彦名命は金剛蔵王菩薩(蔵王権現ともいう。金属神的側面)

薬師菩薩(医薬神的側面)という呼称でもあらわれ、


事代主命としては恵比須神にも通じる神である。


島根県松江市和田見町の売布神社




塩椎神は天若日子の子の少彦名神





またちょっとずれてきたけど


そうだった、そうだった、、、







そうだったーーーーーーーーー!!



少彦名大神




また!!!、無限ループにはまった!!!!!!


でももう今日はこれからバイトで時間がない!!!!!




少彦名神


今また少彦名神を祭祀しなくちゃいけない時代じゃないかあああああああああ



はあはあはあ(*´Д`)


天子宮ともいい、社伝によると、

和銅6年(713年)に国司として

肥後国に下向した道君首名(みちのきみおびとな)によって建立されたといわれます。





当時疫病が流行したため小天に

少彦名神・大名持命の2神を招き祈願を行ったところ、

疫病は治まり人々も治癒したそうです。


そこで首名は出雲大社を模して神社を造立したと伝えられます。

現在、小天宮では、

毎年10月の第2土曜日(以前は10月15日)に行われる

焚火の炭の上を素足で通る火渡の神事が有名ですが、

これは首名が疫病治癒を願った時に

火の中を歩いて無事だったという故事によるものです。







玉名

たまな


たまなも数年前来てたわね、、、、、


そして、また思い出してしまった


結局なんだ、、、すべて繋がってしまうではないか、、、


古代の玉名郡衙に関する遺跡の発掘が行われ、郡倉や寺院、そして港と郡衙道などの存在が確認されています。玉名の郡司の日置氏は、寺院の設立や郡衙の整備を行いますが、その背景には国司「道君首名」が関係していたといわれています。首名は肥後国と筑後国の国司であり、灌漑治水を盛んにおこなったり、農耕の技術・家畜の飼育方法を「百姓」に指導して利を与えたとあり、のちに神として祀られるようになりました。首名の活躍を広く紹介するため、今回の企画展では、大宰府・観世音寺、肥後・陳内廃寺・立願寺廃寺、筑後・井上廃寺の古代の出土瓦の変化や、首名を祀る神社、伝承に関する展示を行いました。首名が赴任した時期に大宰府・観世音寺の影響を受けて再建された寺院が井上廃寺、陳内廃寺、立願寺廃寺などです








タイムアウト!!





道君首名(みちのきみのおびとな)

生誕 天智2年(663年)

死没 養老2年4月10日(718年5月18日)

文献に初めて見える肥後の国司(こくし)

『続日本紀』に「養老2年(718)4月11日、筑後守正五位下道君首名卒しぬ。首名少くして律令を治め吏職に暁らかに習へり。和銅の末に出て筑後守となり、肥後国を兼ね治めき」とある。

663年

(天智2) 首名誕生

700年

(文武4) 大宝律令選定

701年

(大宝元年) 大宝律令完成

大安寺(だいあんじ 奈良市)で『僧尼令(そうにりょう)』を講説

711年

(和銅4) 正六位上より従五位下に叙せられる

712年

(和銅5) 遣新羅大使に任ぜられる

713年

(和銅6) 新羅より帰国

筑後守に任ぜられ、肥後守を兼任した(兼任の日付は不明)

715年

(霊亀元年) 従五位上に

718年

(養老2)

正五位下に

死去

越(こし 北陸地方)の国造であった道氏の出身。

道氏の本拠は加賀の石川郡味知郷(石川県石川郡鶴来町)で、一族の郡司でもあったと言われます。

首名はその枝族で阿倍氏との関係から中央に進出したとする説があります。

首名は青年の頃から律令を学び、官吏としての職務に明るかったという。

刑部親王(天武天皇の皇子)・藤原不比等(鎌足の子)・粟田真人・下毛野古麻呂ら律令選定に加わり、701年(大宝元年)に大宝律令を完成させた。大宝律令撰定の功により禄を賜った。

【肥後国司となった首名】

生業奨励(農業を奨励)

農業伝授  果樹、野菜、養鶏、養豚などを勧める

灌漑用のため池を造る

味生池(あじうのいけ)

和銅年間(708~715)に築いた灌漑用の大きな溜池。

熊本市の万日山と独鈷山の間で、現在は井芹川が流れる一帯を貯水池として開発したと伝えられる。

味生池には悪龍が住み、龍を鎮めるために池辺寺を建てたと伝えられます。

味生池は加藤清正により埋め立てられた。

高橋東神社(天社宮)

首名は規則を定め、規則に従わないものは処罰した。

初め人々は反発したり、恨んだりしたが、成果があがってくると、人民は従うようになった。そして首名の死後、人々は神として祀った。

高橋東神社(天社宮)

熊本市上高橋町(地図)






味生池

来光院


どんどんバラバラしちゃうけど、




狭井神社(花鎮社)




道君首名公



志貴皇子といえば天智天皇の第七皇子。

母親は采女であった越道君娘である。

志貴皇子はまず十中八九、道君首名公とは母方ではあるが血縁関係があり

道君首名公の偉業を認識しているはず。

道君首名は若い貴族として大宝律令の制作メンバーに任命され

701年には大安寺にて僧尼令を説くなど将来を嘱望されていたはずである。

志貴皇子のほうが3歳程度道君首名より年上である。


道君首名公

首名=おびとな=小人名=少彦名ともとれる。



そうよそうよそうなのよね


大田田根子


ここいら辺も、洗脳がきつくて睡魔に襲われるところ


ふっとした瞬間わかるのに

少し時間置くとまた振り出しに戻される

それは、

え、まさか、そんなーマジでーーーって思うから

そんなに深堀もしてこなかった



奈良県桜井市にある三輪山の神である大物主神、または事代主神の子孫または子で、


神君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)、

鴨君(賀茂朝臣氏)、

石辺公の祖神とされる。

なお事績や活動年代、

系譜等から大物主神と事代主神が同神であるという説がある[1][2]。


「オオ」は「大」で美称、「ネコ」は尊称を意味し、

難波根子建振熊命や古代天皇の和風諱号に散見される。

「タタ」は「田」の意味[3]かと推測されている。


『日本書紀』によると


大物主神の子、

『古事記』によると同神の5世孫[4][5]、

『先代旧事本紀』の「地祇本紀」によると事代主神の7世孫[6]で、

崇神天皇と同世代の人物。


『日本書紀』によると、

茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえのむら)、

すなわち和泉国大鳥郡陶器荘(現・堺市東南部の陶器山からその西方にかけて)[7]、


『古事記』によると、

河内国美努村(みのむら)、すなわち若江郡御野(現・八尾市上之町南)[8][9]の

出身という。


いずれも、陶荒田神社(現・堺市中区)[注 1]の付近という同じ場所を

指すかとも考えられる[9][10]。


現在、大神神社の摂社・大直禰子神社等に祀られている[11]。


父は事代主神の6世孫・建飯賀田須命、

母は生玉兄日子命の4世孫・鴨部美良姫で、

神門臣の娘・美気姫を妻とし、

子の大御気持命から三輪氏(神氏、大三輪氏、大神氏)、

鴨氏(賀茂朝臣氏)、

神人部氏、神部氏などの氏族を輩出したと伝わる。






道君 ー>スクナヒコ

大田田根子 ー>オオモノヌシ

スクナヒコもコトシロヌシの系統・一族

大国主・事代主の国譲りの後から

大国主・事代主という ”役職名” は使えなくなった

その代わりに

小彦名神

オオナムチ・スクナビコナという”役職名”に変わった


『古事記伝』によれば

「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とある。



道君首名公が少彦名神を祭祀した


なんてこったいと脳みそぐらぐらしながら記入



このスクナビコナの系図は

祖父 五十猛命、須佐之男命(スサノオ)の子

祖母 宗像女神、瀬織津姫神

父  天稚彦

母  海神国王の妹・豊玉姫

天目一箇命・少彦名神の兄弟を得る


天彦根命(少彦名神兄弟の父で天若日子)


海神豊玉彦命(綿津見大神)の娘

『古事記』では豊玉毘売、豊玉毘売命、『日本書紀』では豊玉姫と表記される。

海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住むとされる。真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)であり、異類婚姻譚の典型として知られる。神武天皇(初代天皇)の父・鵜草葺不合命の母であり、天皇の母・玉依姫の姉にあたる。

豊玉毘売の「豊」は「豊かな」、「玉」を「玉(真珠)」と解し、名義は「豊かな玉に神霊が依り憑く巫女」と考えられる


塩椎神は天若日子の子の少彦名神


少彦名命の父である天津彦根命(天若日子と同神)の妻は、三輪族の頂点に在った阿遅須伎高日子根神の妹(高姫、下照姫)であり、彼自身にも倭家の血が流れていたこと、

出雲国造家が伝えた祝詞にある「飛鳥」の聖地に天香久山神社が建てられ少彦名命が祀られている


富家の伝承(出雲と大和のあけぼの 大元出版)では、スサノオは、大名持であった八千矛命の娘である高照光姫を娶って、高照光姫はイソタケル(天香語山命)を産んだという。


整理すれば

天津彦根命(天若日子と同神)と下照姫(アジスキタカヒコネの妹)--少彦名

出雲風土記では

天津彦根命(天若日子と同神)と豊玉姫(豊玉彦の妹)--少彦名

2説ある



天若日子を唆した天探女が「アマノジャク」の元となったとする説があるが、

天若日子の「天若」が「アマノジャク」とも読めることから、

天若日子がアマノジャクだとする説もある。




ある長者が三人の美しい娘を持っていた。ある日長者の家に蛇がやってきて、娘を嫁にくれなければお前を食ってしまうと脅した。長者が娘たちに事情を話すと、長女と次女の二人は拒んだが、心優しい末娘だけが了承した。末娘は三人の中でも特に可愛がっている娘だったが、泣く泣く差し出すことにした。蛇が指定した場所で末娘が怯えながら待っていると、蛇がやってきて、自分の頭を切るように言う。言われたとおりに、末娘が爪切りで蛇の頭を切ると、蛇は美しい男の姿になり「自分は天稚彦である」と名乗った。

長者の末娘と天稚彦は楽しい日々を送るが、ある日天稚彦は用事があって天に旅立ってしまう。その時に唐櫃を娘に渡して、これを開けたら帰ってこられなくなると告げた。あるとき末娘の裕福な暮らしを嫉んだ姉たちが押しかけ、妹の体をくすぐって鍵を奪い取り、唐櫃を力ずくで開けてしまった。やがて約束の日が過ぎても天稚彦が戻ってこないので、娘も天稚彦を探しに旅立つことになる。ただし一度天に昇ったら、もう地上の世界へは帰って来られないかもしれない。自分がいなくなったことを両親が知ればさぞ嘆き悲しむだろうと心を痛めながらも、娘は決意を固めて天稚彦のもとへと向かう。

天稚彦を探して天に昇った娘は、ゆうづつ、箒星、昴などの星たちから話を聞いて、遂に天稚彦と再会する。天稚彦はたいそう喜んで娘を迎えた。しかし実は天稚彦の父親は恐ろしい鬼であり、人間の娘を嫁として認めるはずがない。それでも娘は「あるがままを受け入れましょう」と答えるのだった。

それから数日経ち、とうとうこの父鬼がやってきた。父鬼が部屋に来る気配を感じると、天稚彦は咄嗟に術を使って、娘を脇息に変えてしまった。おかげで父鬼は娘の存在には気付かなかったが、「人の香がする」と言って去って行った。それからも度々来るようになったので、その度に天稚彦は娘を扇子に変えたり、枕に変えたりして誤魔化していたが、ある日うっかり昼寝をしていて娘を見つけられてしまう。

父鬼は娘に、百足の蔵で一晩過ごすように、などと難問をつきつける。しかし娘が天稚彦から譲り受けた袖を「天稚彦の袖」と言いながら振ると、百足は刺すことをしない。そこで父鬼は次々と難問を出すが、それも娘は天稚彦の袖を使って突破する。父鬼はとうとう娘を認めて「月に一度だけなら会ってもよい」と告げるのだが、娘は「年に一度」と聞き間違えてしまう。そこで父鬼が「それでは年に一度だ」と、瓜を地面に打ち付けると、天の川となった。こうして、娘と天稚彦は年に一度、7月7日の晩だけ逢瀬を楽しむことができるようになった。





天稚彦の父親は恐ろしい鬼

スサノオの話とそっくり


アメノワカヒコは蛇で鬼の一族

その子供がスクナヒコナ(スクナヒコ)


オオタタネコと古代道君は同族で祭祀家

オオタタネコはオオモノヌシ祭祀で事代主家系

古代道君はスクナヒコナ祭祀でスサノオ家系

???

あ、、、睡魔が、、、

もう少しなのに、、、




MixEthnicJamanese

アジア、アフリカ、ヨーロッパから 集めた素敵ショップ。 人と同じもの着たくない 個性派の集う店。 メイン商品として1点モノインポートを扱っています。

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